「よく降るなー」
僕がバイト先から塾に着いた時の先生の第一声がこれだった。季節はもう梅雨
に入ってからだいぶ経っていた。
「びしょ濡れじゃないか」
「自転車で来たから」
「ほらよ」
僕はタオルを渡された。
「濡れている」
「俺も使ったんだよ、男同士だろ、気にするなよ」
僕は仕方なく頭を拭いた。
今日は風も強い、窓にぶしゃーと雨がぶつかる。本当にぶしゃーと音がするん
だから、こう表現するしかない。
一也と浩太が来た。一也も濡れていた。
僕はタオルを渡す。
「濡れている」
「男同士だろ」
僕と先生は声を揃えて言った。
授業を始めることにした。今日は新しいことを学ぶ、すごい楽しみだ。先生の
授業は面白い、特に新しいことを習う時はワクワクする。
「これがこうなって・・・この原理をここに応用するとこうなる・・・だから
この公式は成立して・・・この公式もXがゼロじゃない時は成立する・・・X
がゼロの時はこうなる・・・グラフはこうなる。分かるか?」
「うん」
僕達は頷く。
「よし、じゃあ、例題に取り組もうか」
「はーい」
がさがさと僕らは教科書とにらめっこする。
・・・・
「できた」
一也が言った、いつも最初にできるのは一也だ。その後、僕と浩太が競争す
る。
「できた」
僕と浩太が同時に言った。先生が丸付けをする。二人とも正解。
「次の問題はグラフも描いてみろ」
「了解っす」
一也は言った。
「はーい」
僕は言った。
「わかった」
浩太は言った。
こんな風に時間は過ぎていく。
「よし、今日はここまで、今日も自習室で待っていてくれるか?」
「はーい、今日も先生の家?」
梅雨に入ってから、火、金のおごりの雨の日は先生の家で食べることにした。
まだ雨の勢いは弱まる様子を見せない。
「そうだよ」
それを聞いてから。僕らは自習室に向かった。
一人の女性講師が先生に話しかけていた、なんだか仲良く談笑していた。
「見ろよ」
一也が浩太に話しかけた。
「へー、先生もてるのかな?」
浩太が言った。
「子どもにはもてそうなタイプだけどな」
一也が言う。
「あまり、覗き見みたいなのはやめとこうよ」
僕は言った。
「分かってる、分かってる、行こうぜ」
一也は言った。
「塾の講師って出会いあるほうなの?」
一也は先生の家に向かいながら訊いた。
「うーん、ないよ、講師間で話すこともほとんどないからな」
傘の下で先生は言った。
「今日、話していたじゃん」
「ああ、あんなのたまにだよ、ほとんどない、大学のサークルの方が多いよ」
「そっかー、やっぱ、大学かー」
一也は言った。
そんなことを話しながら、僕達はコンビニに入った。そこで意外な人物に出会
った。桂だった。背中には赤ん坊を背負っている。
「桂・・・」
一也は言った。
「一也君」
桂はぺこりと頭を下げる。
「・・産まれたのか?」
「うん、この間・・女の子」
「そっか、よかったな」
「うん、ありがとう・・学校のことはごめんね、ずっと謝りたかった、ごめん
なさい」
桂は頭を下げた。
「いいって、気にするなよ、どうせ、いつか辞めるつもりだったんだから。桂
こそ、学校はどうしてる?」
「今年は休学してる、来年からまた戻るよ、シングルマザーだけど」
「そっか、無理すんな、なんかあったら言えよ」
一也は微笑みながら言った。
「うん、ありがとう。それじゃ、またね」
桂はそう言って去って行った。
「よかったな」
先生が一也の肩に手を置く。
「うん。良かった、良かった」
僕は頷いた。
「うん!」
浩太も笑みを浮かべた。
「へへ」
一也は照れ臭そうに頭をかいた。
「よっし、今日はカップラーメン一人二つ」
先生が言った。
「やったー!」
僕達はカップラーメンの棚に走った。
「それロン」
先生は言った。僕達は「えー」と声をあげる。
「トイトイね」
僕らは先生の部屋でラーメンを食べながら麻雀をしている。梅雨の火金の塾帰
りのおなじみのメニューになっている。
「しかし、一也は嬉しそうだな」
先生は笑った。
「いいじゃん、別に、嬉しかったんだから」
一也は言った、でも口元はまだ嬉しそうな形をしている。
「ふふ」
僕と浩太は笑った。
「先生、暑いよ、エアコン買おうよ」
一也は話題をずらそうとした。
「そんな金ないよ」
僕らは牌をガチャガチャと混ぜる。
「なあ、ところで、盆に旅行に行かないか?」
先生は言った。
「旅行?」
一也は言った。
「ああ、美術サークルで行くんだけど、お前達を連れて行っていいか訊いたら
、OKもらえた。近くの海なんだけど、どうだ?」
「行きたい」
僕は言った。
「美術サークルてことはこの前一緒に飲んだ人たちも来るの?」
僕は不自然じゃないようにさりげなく訊いた、手元の牌はぐちゃぐちゃになる
。
「ああ、全員来るよ」
横井さんも来るんだ。
「僕も行きたいな」
浩太が言った。
「俺も」
一也も言った。
「よし、休みとれるか?」
「何日間?」
僕は訊いた。
「二泊三日」
「なら大丈夫」
僕は言った。
「僕も」
浩太は言った。
「俺も」
一也も言った。
「よっし、全員OKだな。それと今度模擬試験があるけど受けないか?」
「模試?」
「ああ、予備校の全国学力テストだ」
「うーん」
僕は言った。
「よし、それも全員OKてことだな」
先生は勝手に決めた。
「ええー」
僕達は声をあげる。
「この先大学受けるかもしれないのなら、必須だ。受けといて損はない。国立
狙うならなおさらだ」
「分かった」
浩太は言った。
「ええ、浩太、いいのか?」
一也は言った。
「うん、僕大学に行こうかなて考えてきたから」
「そっかー、大学か」
僕が言った。
「しょうがない、受けるか」
「ええ、陸人まで・・はー、仕方ない、受けるよ」
一也は言った。
「よし、ああ、言い忘れてたけど試験今週な」
「ええ」
そんなことが決まりながら、夜遅く僕らは先生の家を出た。雨はまだ降ってい
た。しかし、傘にぶつかる雨の勢いは弱くなってきていた。もうすぐ梅雨もあ
けるかな、そんなことを考えた。
ぱーと虹がかかるように梅雨は明け、夏が来た、そして、盆休みが来た、旅行
なのに僕たち三人のテンションは低く、荷物も重かった。
「先生、マジで?」
電車の中、僕は先生に訊いた。
「うん、マジ」
「マジ?」
もう一度訊いた。
「ちょーマジ」
「先生、その日本語はどうかと・・・」
一也は言った。
「お前の現代文の点数の方がどうかと思うがな」
先生は微笑んで言った。
浩太はしょんぼりと沈んでいた。
僕達の模試の結果はよろしくなく、旅行は勉強合宿になった。この考えには親
も喜んでいた。
目的地の駅に着くと、美術サークルのみなさんがいた、みんなニヤニヤしてい
る、横井さんもいた。
荷物をずるずると僕らは引きずった。
「がんばれー」
みんなが応援してくれた。だけどその応援は辛かった。みんなにからかわれな
がら、僕達は旅館に向かった。
ひーひー言いながら歩いていると突然目の前が開けた、海だ・・
空の青さよりも、その海は青かった。
わーわーと美術サークルのみんなは声をあげていた。僕たちも声をあげずには
いられなかった。海だ、海に来たんだ!
先生が優しく浩太の肩に手を置く。
「心配するな、お前達の遊ぶ時間も作ってやる」
僕達は歓声をあげた。
旅館に着くと僕達はさっそく水着に着替えた。
「一日目は夜勉強する」
先生はそう言った。
「夜まで遊びまくるぞ」
一也はそう言った。部屋は勉強できるようにと一室を先生と僕達用に割り当て
てくれた。
早速僕らは全員水着になって浜辺に集まった。僕は目のやりどころに困った。
一也は立ち泳ぎを僕と浩太に教えてくれた。僕は何とかできるようになって足
の着かないところまで行けるようになったが、浩太はできるようにはならなか
った。
「そのうちできるようになるさ、俺も昔はできなかった」
先生は言った。
「そうそう、気にするな」
一也は言った。
浩太は頷いた。
暑かった、太陽も雲も海も人も熱かった。
かき氷を急いで食べて、三人で頭を痛くした。
三人で浜辺の砂に埋もれた。
三人で水をかけ合った。海水がしょっぱかった。
先生が笑った。女の人達が砂の城を作ろうとしたが全然上手くできなかった。
女の人達がナンパされて断ってキャーキャー騒いでいた。
男の人達が遠くまで泳いで行った。
女の人達が貝殻を拾っていた。
ヘトヘトになるまで遊んだ。
熱かった。
「さーて、勉強の時間だ」
「はーい」
「そら、一也は国語、陸人は英語、浩太は数学だ」
「はーい」
「やっほー」
横井さんがやってきた。
「私も教えるよ」
本当?
僕は顔が赤くなった。
「横井さんも塾の講師しているんだよ、じゃあ、横井さん、陸人と浩太見てあ
げてください。俺は三人とも見ますから」
「はーい」
僕はどきどきした。分からないところがあると、横井さんに教えてほしかった
のだが、恥ずかしくて、先生の方を呼んでしまった。
浩太も見るからに緊張していた、がちがちだ。
こんな状態でも、横井さんは僕と浩太を順番に教えてくれた。教え方は先生の
方が上手かったが嬉しかった。こんな勉強夢みたいだった。
「もう限界」
夜十一時になって一也が言った。
「そうだな、今日はこれぐらいにしとくか」
先生が言った。
「ありがとうございます」
と僕と浩太と先生は横井さんにお礼を言った。
「じゃあ、また明日来るね」
横井さんは手を振って帰って行った。
それじゃ風呂入るか。
「はーい」
エアコンを切って窓を開けると潮の音と匂いがやってきた。
風呂の中でも僕達は暴れまわった。一也が一番嬉しそうだった。
風呂を出て僕らは麻雀部屋を見つけて一局やった。
部屋に帰るとグースカと四人で寝た。
次の日、僕らは早起きをした、水平線からの日の出が見たかったからだ。先生
は水平線からの日の出を見たことはあったが、僕達は誰も見たことはなかった
。
潮の音を聞きながら僕達は突堤の先に座った。
一也は横になってまだ眠っていた。直前になったら起こしてほしいとのことだ
。
「結構綺麗なもんだぞ」
先生は言った。
僕達は大きな欠伸をしながらうつらうつらとしていた。ぼーっとしながら潮の
音を聞いた。
「おーい、一也、起きろ」
先生は一也を起こした。
本当だ、海の端が明るんできている。
「おお」
僕は思わず声を出した、日は頭を出したかと思うとじっくりと上がってきた。
「へー」
一也が目をこすりながら言った。
僕達は無言になった。
僕達の顔を日が照らす。
太陽はゆっくり起き上がるように上った。それは何かすごいことが始まる儀式
かのようでもあったし、毎日の当然の世界の慈しみの一つのようでもあった。
太陽が昇り切ると先生は立ち上がった。
「どうだ?一生に一度は見ておくものだろ」
先生は言った。
「うん」
浩太が頷く。
「いいもん見たわ」
一也は言った。
「・・これが当たり前なんだ」
僕は言った。
「そうでもないさ、この当たり前が崩れる時もあるんだ、失ってしまう時が・
・」
先生は太陽を見つめながら言った。
「どういうこと?」
僕が尋ねた。
「俺達が寝て起きて飯食って元気にしておかないとこれは見れないんだ」
先生は答えた。
「そっか」
浩太は頷いた。
「そうなんだ」
僕も頷いた。
「つまりは今日も頑張るってことだな、よし、がんばるぞー」
一也は言った。
「そうね」
後ろから女性の声がした、振り返ると横井さんがいた。
「横井さん、いつからいたんですか?」
「日が出始めたところからよ、なかなか良いこと言うのね、春日君。惚れちゃ
うかも」
横井さんは言った。
「また、そういう冗談を」
先生は言った。
「さて、勉強しようか」
横井さんはそう言って歩きだした。
「横井さんは厳しいから、失礼のないようにな」
先生は小声で聞こえないように言った。
「はーい」
僕たちも小声で言った。
「さて朝食まで勉強するか」
先生は歩きだした。僕たちも歩きだす。横井さんの後姿は綺麗だった。
僕はもう一度太陽を振り返った、太陽は僕たちに真っ直ぐ光の線を示していた
、僕達は元気だ。
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