先生はコーヒーでいいか聞いてきた、僕はうんと頷く。
狭い部屋だな、そう思った、6畳一間に台所、本当に狭い。
「狭いでしょ」
先生は笑いながら言った。
「いえ・・・」
「いいよ、正直に言って」
「窮屈じゃないですか?」
「私にはこれぐらいがちょうどいいのよ」
出されたコーヒーを飲む、ミルクも、砂糖も入れない、ブラックだ。高校生
になってからコーヒーはブラックで飲むようになった。先生が飲んでいるの
は、透明なものだった。
「先生、何飲んでいるの?」
「白湯だよ、コーヒー苦手だから」
僕はコーヒーを飲みほして、コップを置く。
「もう一杯飲む?」
僕は首を横に振った。
「で、健一は今大学?」
「うん」
窓がギシギシと鳴った、外はさっきより風が強いようだ。
「どこの?」
「N大学」
先生は白湯を飲み終え、コップを置いた。
「ここから近いね」
「そうだね」
なんとなくカーテンを見つめた、イルカの模様だ。可愛らしい模様だった。
「ここに一緒に住まない?」
「え?ちょっと待って・・・先生、僕のこと嫌いって言ってなかった?」
先生は少し笑った。
「今はね、でも、だんだんと好きになっていくよ」
「それも、夢で見たの?」
「うん、はは」
先生は笑った。
「うーん」
「じっくり考えていいよ、親御さんの承諾もいるだろうし」
「いや、それは大丈夫なんだけどね、親は大丈夫なんだ」
「なんで?」
先生はきょとんとした顔で見つめる。
「親いないんだよ、もう。だから大丈夫」
「本当に?」
「うん、高二の時に事故で」
「そう」
「いいよ、一緒に住もう」
「ありがとう」
僕は今一人暮らしをしていた。だから、誰かの了承を得る必要はないだろう。
祖父母は健在で高校生の頃世話になったが、こういうことに反対するような方
たちではなかったので、たぶん大丈夫だろう。
「先生はいいの?僕と暮らすことに抵抗ないの?」
先生はお湯をまた沸かし始めた。
「大丈夫だよ、独りは辛いしね、たとえ、それが依存だとしても独りは辛いよ
」
先生は僕の方を向かずにやかんから出ている蒸気を見つめた。
「くるくる、くるくる」
先生が呟いた。
「何?」
僕は尋ねた。
「やかんの声だよ、私には聞こえるのさ。健一には聞こえないかな?」
おかしなことを言う、そう思った。
「聞こえないよ、そんなの」
「そう」
そう言って先生は立ち上がりお湯でお茶を淹れた。
未来の選択を見る夢といい、やかんの声といい、変な人だな。
「私はね、コーヒーとか緑茶はダメなんだけど、麦茶は大丈夫なのさ」
そう言って熱い麦茶をフーフーと息をかけて少し飲む。
「でもときどき、無性にコーヒー飲みたくなって飲んじゃうんよ。・・・きり
きり、きりきり」
?
「何の声か分かる?」
「分かんない」
「窓に風が当たる音」
「それなら、ビュービューじゃないの?」
「それは風の音だよ、私が言ったのは、窓の音。それに風はとくとくだよ」
「変なの」
僕が言うと先生は少し笑った。
「そうだよ、私変なんだよ」
先生は笑い鼻歌を歌い出した。
「先生」
「河合先生」
我に帰ると目の前には塾の生徒の小杉という女の子がいた。
「できました」
そう言って小杉はノートを提出した、僕はノートを受け取り採点する。
「・・・おお」
「どうですか?」
小杉はそう言ってこちらの表情を窺う。僕は笑顔で答える。
「全問正解だ」
「やった!」
小杉は満面の笑みを浮かべて喜んだ、喜怒哀楽をしっかり表現する子だ。
僕は中学生を対象に数学と英語を教えている、今は数学の時間だ、つい山田先
生のことを考えてぼーっとしていた。
「小杉は最近どんどん実力をつけてきたな」
「先生の教え方がいいんよ」
「おー、言うなあ」
「今日はあれやね」
「こら、塾内では内緒や」
僕は小声で注意した。しししと笑いながら小杉は席に戻って行った。他の生徒
もみんな、あれやあれやと笑っている。
「こら、集中しろ」
全く、困った子たちだ。
「先生、ごめんなさい」
そう言って斎藤という女の子がやって来た。
「どうした?斎藤」
「ごめんなさい、どうしてもこの問題分からないです」
弱弱しく斎藤は話す。
「斎藤、分からないのは悪いことじゃない、だから、そんなに自分を責めなく
ていいんだ」
「・・・うん」
「分からないことをちゃんと自分で言えたことは偉いぞ」
「うん」
「ここはだな・・・」
斎藤はおとなしいけど、とても頑張る子だ、僕だけじゃなく、それは他の生徒
たちも認めている。だが斎藤は数学がどうしても苦手なようだ、力になりたい
、いつもそう思った。
「あ、そっか」
「分かったか?」
決して答えをすぐ教えるようなことはしなかった。解き方のヒントを与えた、
できるなら自分の力で解いて欲しい。
「うん、先生、ありがと」
そう言って斎藤は笑みを見せ、急いで席に戻り問題に再び着手した。
頑張る子なんだ、力になりたい。
「先生、そろそろ時間だよ」
「そうか」
時計は9時半を指していた。
「じゃあ、今日はここまで、できなかったところは宿題な」
「ええー」
生徒は反対の声をあげた。
「文句言うな」
「先生、いつものな、早く来てよ」
そう言って男子3人が急いで出て行った。
教室には残り3人の女の子がいた。斎藤と小杉と山口だ。山口は学校で学級委
員長もしていて、しっかりした子だ。このクラスは中学二年生の男子3人女子
3人からなっていた。
「山口たちも先行っといて」
「はーい」
と返事をして3人も出て行った。
「さて」
僕は日誌のようなものを記入し、塾長に提出しコートを着て外に出た。寒い、
背中が特に凍える。山田先生の昨晩言っていた言葉を思い出す、「すたすたと
寒いね」、僕は少し笑った。
塾の前には斎藤達女の子3人が残っていた。
「なんや、待っていたんか?」
「うん、先生一緒に行こう」
山口が答える。
「寒かったやろ、先にコンビニ入っていたら良かったのに」
「うん、寒い、早く行こう」
小杉が言った。僕は歩きながら斎藤に話しかけた。
「斎藤も寒かったやろ」
斎藤は首を横に振った。
「ううん、私は大丈夫です」
また強がりだな、なかなかこの子は難しい。
コンビニに入ると先に出て行った3人の男子がいた。
「先生、遅いよ、ねー、これ買って」
「一人二百円までな」
「俺、このカップラーメン」
3人の男子達は全員大盛りのカップラーメンを手に取っていた。
「山口たちも選びな」
それぞれ選んで僕が持っていたカゴに詰め込んだ。
「斎藤、二百円までで良いんだぞ、こんなちっちゃい缶コーヒーにしなくても
」
斎藤は首を横に振った。
「・・これでいいです、家に帰ったら夕食がありますから」
いつも斎藤は小さい缶コーヒーだった。
「じゃあ、先生も同じのにしよう」
僕は缶コーヒーを手に取りカゴに入れた。
「あれ、先生、カップラーメンじゃないの?珍しいね」
小杉が言った。
「今日は夕飯があるから」
そう言ってレジに向かうと、店員さんに毎週ご苦労様ですと声をかけられた。
そう毎週金曜日には生徒たちにコンビニでおごっていたのだ。
生徒達はカップラーメンにお湯を注ぎ、いろんなことを話し始めた。
「先生、彼女作らないの?」
男子の一人が訊いてきた。
「作らないんじゃなくて、できないんだよ」
僕は嘘をついた、山田先生のことを言うと面倒なことをいろいろと訊かれそう
だからだ。
「もったいないなー」
山口がカップラーメンを開けながら言った。
こんな生徒にカップラーメンおごっているようなことがばれたら間違いなくく
びになるだろう。
寒い、何でこんなに寒いのに、この子達はコンビニの外でラーメンを食べてい
るのだろう。生徒たちも平気ってわけではないようだ、さっきから、寒い寒い
と言っている。でも嬉しそうな笑みを浮かべている。
男子達は山口と小杉にいろいろとつっ込まれていた、斎藤はそれを横で見て静
かに笑っていた、いつの時代も女性は強いな、そんなことを思いながら中学生
時代を思い返していた。
「あの、先生」
斎藤に話しかけられた。
「うん?」
「・・・先生は好きな人いないんですか?」
「・・いないよ」
「・・・そうですか」
「斎藤は?」
「私は・・・います、好きな人」
「そうか、付き合えたらいいな」
こくりと斎藤は頷いた。寒いのに頬が真赤だ。
それから僕たちはいろんなことを話して笑った。
「おはよう」
山田先生が隣から声をかけてきた。
「何時?」
「7時だよ」
「うーん、まだ寝る」
「何言ってんの?起きて」
「今日、大学休みだよ」
「知っているよ、だから、散歩の約束したじゃん」
散歩?したっけ、そんなの?うーん、そう言えば寝ている時にそんなこと言っ
ていたような・・
「あのさ、それってもう寝ようとした時に言わなかった?」
「うん、夜中の二時頃、話終わってその終りに」
「それって意識なかったよ、きっと」
「つべこべ言わないの」
そう言って僕の布団はひっぺがえされた。
「うー、さぶ、先生、鬼やね」
「こんなかわいらしい鬼がいるかい?」
先生はもう着替えていた。部屋が狭いので一組の布団に二人で寝ていた。とい
っても、掛け布団は二人で寝るには小さいので二枚使っていたが。僕はやけに
光がまぶしいなーと思い、立ち上がった。
「雪だ」
「そうだよ、夜遅くから降り始めたんだよ」
「これは、この音は?」
僕は雪の音を知りたくなった。
「・・ぽさぽさだね」
「ぽさぽさか」
「うん、ぽさぽさ。さー、ぽさぽさ祭りさ」
「祭り?」
「うん、ぽさぽさ祭りだよ、早くごはん作ろう」
僕は首を傾げながら、靴下を履いて、台所に立った。
「今日は何作るの?」
僕は尋ねた。
「玉子焼さんと味噌汁さんと野菜炒めさんだね」
「じゃあ、僕、味噌汁と玉子焼作るね」
「おう」
実は料理は僕の方が上手だった。
「ねー、玉子焼の音は?」
僕は玉子焼をひっくり返しながら尋ねた。
「健一にはなんて聞こえるの?」
「じゅーじゅーかな」
月並みだなと思った。
「私にはろもろもだね」
「ろもろもか、おいしそうだね」
「だね」
「できた、さー、食べよう」
先生は野菜炒めをさらに分ける。
「こっちはまだだよ」
「早く、早く」
「はいはい」
僕は苦笑混じりの返事をする。
「ねー、ねー、雪すごくなってきたよ」
「うん?」
僕は窓の方を見た。
「なんじゃこりゃ!」
雪はもうどさどさと勢いを増していた。
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