二十歳の頃
その鉄道はいつまで乗っていても海が見えなかった、海に沿って走っているの
だが、海から少し離れた所を走っているのだ。事実降りて少し歩くとすぐに海
辺に出る。
僕は電車に乗りながら一枚の紙を握りしめた。紙はもうグシャグシャだ。何度
もゴミ箱に捨てては拾いだした、紙に書かれた地図は幸運にもボールペンで書
かれたものだったので長い年月が経っても消えることは無かった。
僕は目的の駅に着くと丘を見つめた、まず、海が見たいと思った。丘と反対側
を向き遮断機を通り過ぎ海に向かった。この高鳴る鼓動を和らげたい、心を鎮
めたい。海までは途中から上り坂になっているのでなかなか海は見えず、僕の
心は騒いだ。そしてそれは突然だった。
「海だ」
僕は思わず呟いた。堤防の向こうには半分は貝殻でできているのではないかと
思わせる白い砂浜、そして押し寄せる波音、青い海だ。僕は内陸で育ち、旅行
もあまりしなかったので海を実際にはほとんど見たことはなかった。
「潮臭い」
僕は堤防の上に立って大きな海を見渡した、穏やかな太平洋の海だ。そして、
その潮臭さにさっきまで張り詰めていた緊張感からとかれ、思わず吹き出して
しまった。
「潮臭いはないでしょ、私のお気に入りの場所なのに」
突如後ろから女性の声がした。僕は慌てて振り返って、そして、驚いた。山田
先生だ。
「先生」
「ちゃんと二十歳になったら会いに来たわね、えらい、えらい」
「先生、どうして、ここに・・・これも見えたの」
先生は僕の目を見つめたまま、軽く頷いた。
「ハッピーバースデイ・・・ディア健一」
僕は今日二十歳になった、そして僕の名前は河合健一、先生の名前は山田里香
、今日は約束の日だ。僕たちの。
「・・・ありがとう、僕の誕生日を覚えてくれていたの?」
先生は首を横に振った。
「朝ね、夢で健一に会う夢を見たの、でここに来たのよ」
「いつものよう・・」
「いつものように会おうと思わなければ、会わなかったんだね」
僕が言おうとした言葉を先生は奪った。
「ここまでのことを夢で見たのよ」
「やっぱり、いつもの予知夢?」
「見えたものを変えることはできたのだから、予知夢とは言わないんじゃない
だろうかな」
「そう」
「教師辞めたよ」
「本当?」
「うん」
潮風が二人を強く吹き付けた。
「寒くない?」
「寒い」
季節は冬。僕たちは凍えていた。僕の誕生日は2月2日だった。
「ごめん、もう少しここにいたい」
そう言って先生は僕を見つめた。
「本当に二十歳?童顔だからよく分からない」
「二十歳だよ、この地図・・先生の住所じゃないよね」
「今、住んでいるところだよ、前のは教師やっていた時に住んでいたところだ
から」
先生は砂浜へと降りて行った。踏みつけられた貝殻がジャリジャリと音をたて
た。僕も後に続く。後を振り向かずに先生は話した。
「私ね、今、塾の講師やっているんだ。個別指導のだけど。結構楽しいよ」
「そっか、俺もバイトで塾の講師やっているよ」
「本当?」
「うん」
「健一君が講師か・・楽しい?」
「結構ね」
「そっか、良かった」
テトラポッドの前にまで来ると、先生はテトラポッドを登り始めた。
「ええ、ここも?」
僕もそう言って後を追った。先生はワンピースを着ていたので目のやり場に困
った、白い足が裾から見える。
続いて先生は防波堤に乗り移った、そこで腰を下ろし海に向かって足をぶらぶ
らとさせた、その行為があまりにも子どもっぽかったので、僕は苦笑した。僕
も防波堤に乗り移った。
「ここ」
そう言って先生は隣の場所を叩いた。
「隣座っていいの?」
「うん」
座ると先生の髪が風で僕の頬を撫でた、僕の胸は苦しくなってきた。ごまかす
ように僕は話しだした。
「僕さ、先生のこと、そんなに好きじゃなかったんだ」
「うん」
先生は頷く。僕は慌てて続けた。
「でも、それは小学生だったからだよ。まだまだ子どもで、僕って悪ガキだっ
たから、先生は全員嫌いだったんだ。今は違うよ、嫌いじゃない」
「うん」
先生は頷く。
「・・・でも好きってわけでもないんだ」
僕はゆっくりと静かに言った。まるで小さな赤ん坊に話しかけるように。話し
ている間、先生は一度もこちらを振り向かなかった。
「私もだよ」
先生は素直に言った。
「私もさ、健一のことまだ好きってわけじゃないんだ」
「それなのにこの紙渡したの?」
僕は驚いて紙を見せる。やっとこちらを向いた時の先生の頬は涙で濡れていた
。僕は驚いてハンカチやティッシュを探すが見つからなかった。
「大丈夫」
そう言って先生は自分のハンカチを取り出した。
「あのね、子どもみたいな言い方になっちゃうけど、私ずっと待っていたんだ
よ、ずっとね」
先生はハンカチを当てながら下を向いた。
「僕も」
今度は僕が前を向いた。
「僕も待っていたよ、何度もこんなのありえないと思った、未来を見るなんて
ね。でも恋人も作らず、ずっと待っていた。そして思ったんだ、会った瞬間何
かが起きるって、自分の中に何かが起きるってね・・・でも結局何も起こらな
かった、先生は何か起きたの?」
先生は首を横に振る。もう涙は流していない。
「健一には、もうすぐ分かるよ、運命が」
僕は先生の方を向いた。寒いけど空は青かった。綺麗な綺麗な白い雲が浮かん
でいる。
「その未来は変えられるんでしょ」
僕は小さい声で言って先生の方を見た。先生はこくりと頷く。
「なのに、ずっと待っていたの?今、えーと三十歳だっけ?」
「三十三歳だよ、健一が小学校卒業して私と別れたのは二十五歳だから」
「結婚は考えなかったの?」
「うん」
先生は小さく下を向いた。防波堤に波がうちつける、見ているとなんだか飲み
込まれてしまいそうだ。山田先生はかなりの美人だ。小学生の時、山田先生の
ことを好きな子はたくさん居た、でも僕はさっき言ったように悪ガキだから、
先生が好きじゃなかった。山田先生はきっとモテただろう、それは今でも変わ
らないだろう。
「健一は告白とかされた?」
「されたことはあるけど」
「どうしたの」
「断った」
「なんで」
「一応約束したしね」
「約束?」
「これだよ」
「ああ・・・健一はすごいね。私は二十歳の時から付き合っていた人がいて、
二十八まで別れなかったよ」
「ちょっとショック」
そう言って僕は少し笑った、この浜辺には全く漁船は無かった、もう少し行っ
たらあるのではないだろうか。
「ごめんね、でもその人のこと好きだったし、約束が・」
「やめて」
僕は途中で遮った。
「そんな話聞きたくないよ」
カモメが遠くを飛んでいる。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
「・・・うん、しばらく見ないうちに大人っぽくなったね」
先生は靴を脱ぎ、砂を払った。
「そんなことないよ、中身はまだまだ子どもさ、でもあの頃の先生の気持ちは
、少しは分かるようになったよ」
「うん」
「あの頃は教師って絶対的な存在だったけど。本当はまだ子どもで四苦八苦
して毎日を過ごしていたんだね」
「そうだね」
「・・・ねえ、何を見たの?」
「・・内緒」
「ええ、それってひどくない、教えてよ」
「自分の未来は自分で切り開きなよ」
「まあ、確かにそうだけれど」
遠くの方に船が見える、漁船だろうか。
「寒いね、家に入ろう」
そう言って先生は立ち上がった。
「来るのが今日だって朝分かったから、急いで掃除したんだよ」
「そう」
「あと、浜辺でずっと待っていたから、体冷えちゃった」
「はは」
僕は少し笑った。手に持っている紙を見てそれをポケットの中に押し込んだ、
何度も見たのでもう地図は覚えていた。
「卒業おめでとう」
十二歳の僕に山田先生は卒業式が終わると話しかけてきた、何で僕に、そう思
った。
周りには泣いている女の子がいた、僕はそれを見て馬鹿馬鹿しいと思っていた
、たかが卒業式ぐらいで泣くなよ、そう思った。
「ちょっと良い?」
「何すか?また予知夢っすか」
この頃の僕は荒れていた、家庭環境とかいろいろあったけど、何より学校が大
嫌いだったのだ。そして教師も。
人気の少ないところに連れていかれた。僕は正直やめてくれよと思った。
「これ」
そう言って一枚の紙切れが渡された、地図が書かれていた。
「二十歳になったら会いに来て、必ず来てね、待っているから」
僕は頭の中でクエスチョンマークを作った。
「どうして?」
「私達恋人同士になるんだよ」
「?」
一陣の風が吹くと桜の木から花びらが舞い落ちてきた。僕たちを花びらは包み
込んだ。
「待っているからね」
そう言って山田先生は去って行った。
僕はしばらくぼーっとしていた。
「河合」
友人に呼ばれて僕は紙をポケットに押し込み、友人の方に向かった。
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